空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

ヤな自分の芽生え

「格好悪い」から、押し潰してヘラヘラしてきたけど、根っこで消しきれなかった感情が脳内で字面を追うほど輪郭が明確になって、築き上げたものが薬液をかけられたかのようにとけだして形を失っていく。

 

自分に自信がないから、好きになれないから、せめて身に纏う飾りを少しでもよくしようとしてきた。

振る舞いとか。考え方や真摯さ、首尾一貫させる忍耐力、とにかく、自分が思う嫌いな奴にならないこと、そこに潔癖さをずっと抱えてきた。

 

それを見せることは格好悪いし、ヘラヘラした奴のふりを、何年もしてきた。

 

生きるのが楽になった。人と揉めることも減った。うまくいった。今を生きるようになった。

 

でも、根っこには昔からの自分がまだ、棲んでいるんだな。

 

生きやすくするために、馴れ馴れしくしてみたり、嫌いな自分には蓋をしたりしてきたけど、全部全部つくった自分だから、ふと息を抜いたときにしんどくて全部捨てたくなる。

「寂しいときは泣いていいんだよ」

最近、母がよく夢に出てくる。

以前は姿が見えるだけだったり表情を確認できる程度だったが、徐々に話し声がしたり、会話をしたり、夢の中で長い時間を過ごすようになった。

一度にいろんな夢を見て、どちらかと言うと覚えているほうだが、今日は従兄がなくなった夢を見た。架空の従兄で、葬式までの家にいる期間、湯灌前くらいを描いているようだ。少し黄色く、鈍い色になった顔や身体が遠目に見えて、目を伏せた。

遺体が家に戻ってくると、せわしない。世話焼きでしきたりを大切にする母は、存命のおばと家の中のタオルやら何やらをかきあつめはじめた。

ーーそのおばも、他の親戚も、母がもういないことは知っているのに。

葬儀になると、なくなった人も現れて、家の中で手伝う、といった設定らしかった。ただ話しかけることは許されず、見て見ぬふりをしなければならなかった。

その様子を見て父が、「寂しいときは泣いていいんだよ」と、私に声をかけた。


ここで目が覚めた。

「お母さんに会いたい」

このことで胸がいっぱいになって、目が覚めてすぐ声をあげて泣いた。お母さんに会いたい、お母さんに会いたい、お母さんに会いたい……落ち着け自分、深呼吸しろ、そう自分に声をかけられるまで時間がかかった。こんなに頭に余裕がないこともあるのだろうか、胸で泣くような 、おえつで気管支の奥に痛みを覚えた。

落ち着け落ち着け、今日は休めないから……

気を紛らすのにテレビをつけた。出来すぎた偶然で、「お母さんの支えで頑張っているんですね」という男性の声が、テレビがついた瞬間クリアに入ってきた。ゴルフ選手の練習風景を伝えていたようだった。


160629

お弁当箱とその中身。

「始めのうちは、わからないことが何なのかがまず自分で分別がつかないと思います。闇雲に質問するのではなく、今の自分の立場にとって、何の情報が必要なのか優先順位をつけて、分からないところを炙り出してから質問しましょう。

また、プレゼン研修の説明や資料の用意において、ふたつの軸で考えましょう。顧客がその提案を実施しようと思うための、ロジックとコンテンツ。お弁当の箱がしっかりしているか、あとは、どんなお弁当の具にするか、みたいな感じですかね。どちらのバランスも考えてください」

若輩者ながら、新人の配属前研修において、営業チューターを任せてもらった。1週間ずつ、2名の新人が入れ替わりやってきた。最終日にはプレゼンがあり、大義としては、おおよそ上記のようなことを伝えたように思う。

元来、人に何かを教えることは恐らく好きなのだが、折角なのでより学びのある機会にしたい、彼らの努力に応えたいと思うとどうしても必要以上に力んでしまう。時折偉そうなことも説教垂れてしまうのだが、自分を見直したり自分の頭を整理するきっかけにもなり、自分にたいしても大変学びの多い業務だ。

そんな仕事も営業の次のステップに良いなと思うのだが、より良い指導やより良いコンテンツの提供には現場感覚を忘れないことが肝要であることは身に染みて理解しているので、勇気を出して挑戦していくにはまだまだ未熟者だ……この話はまた気が向いたら。

さて、ここ最近久しぶりに自分に対面する機会が増えた。脳内で何度もルーティーンのように繰り返してきたことを、口から出して話すことが増えたのだ。

その過程で、自分は、いかにも主張が強く自我を貫くような素振りを見せて、中身のない人間かということに気がづいてしまった。意見や考えが浮かんだり、それをまとめるのは得意だが、何かの決断をするのが苦手だ。

自分が何かを推進するにあたって、客観的な判断、つまり第三者の意見や確認がないと押しきれない。端的に言うと自分の決断に自信がないということに気づいてしまったのである。

そんな“先輩”が後輩に偉そうなことを言ってもな、と思いつつ、人間には新しい局面がどんどん訪れ、その度に大人になるのだから、その直前は大人の一歩手前に決まっているのである。先行く人間は、後からきた人間と共に、きっと育つのである。

そんなことを思いながら、自分を受け止めてもらうための口実のために、上の人間を受け止めなければならない業のようなものを、感じたりもするのである。


160521-

憂鬱な気分とパンケーキ――代々木のカフェにて

16:30頃、30分ほど早く打合せが終わった。クライアントと、一緒に伺った代理店とでは、別件の話もあるらしい。私は一足早くその場を後にすることを空気的に促された。「あ、こちらまでで大丈夫ですよ」疎外感を封鎖して作りきった笑顔でエレベーターの方向へ向かった。

打合せ前、昼下がり、淀んだ目を覚ますためにお手洗いの鏡で笑顔を作った。今日初めて笑った。全力で口角をあげた。目の周りの表情筋が固まっており、眉や瞼が想像を超えて重たくて驚いた。目の奥がくすんで笑っていなかった。瞬きをしたりして、目の周りをほぐし、見られるレベルに整えてから打合せへ向かった。不思議と自分の得意業界の打合せは適当な業界の世間話などもはさみながらそれなりの話が出来た。代わりに自信のない領域となると途端にそのことが表情や態度に出てしまうのが悪いところだ。これは社会人歴が伸びてもあまり変わらない。私は「ジェネラリスト」より「スペシャリスト」のほうが向いているのではないかと思う。小耳にはさんだ話だと、どこかの外国では「スペシャリスト」というと、専門家=”それ”しかできないというレッテルを貼られた人、という意味になると聞いたが。

携帯電話の電池の減りも早くなった。半年しか使っていないにも関わらず挙動も重く、電池もすぐなくなってしまう。加えて今朝充電が出来ていなかったので、自前のテザリングを使わなければならないためひやひやした。電源があるカフェを検索した。駅の近くまで既に来ていたので、おしゃれなカフェは諦めてチェーン店で過ごすことにした。

代々木はいつ来ても薄汚い。新宿の華美な部分を削り、人口を減らしただけのような場所だ。重い返せば私が代々木駅を使うときは曇りか雨の日ばかりな気がする。ありきたりなカフェで、パンケーキを頼む。ここ最近はストレスから、食べたいときに食べるようにしている。15:00過ぎにハンバーガーを食べたばかりだった。焼くデザートの割に出てくるのが早いので、ある程度出来あいなのだろう。載せられたベリー類はまだ凍っていた。これでパンケーキ880円は高いと思う。でもNY発だのといったしゃれた店のこの類の食べ物が1500円くらいすることを考えたら、こんなものなのかもしれない。

ナイフで黙々と切り刻んでは、ベリーとクリームを乗せて、口の中に頬張った。人工的なミルクを含んでいるような味がした。粉ミルクのような味のするパンケーキ。左には男子高校生が猛勉強をしている、f(x,y)という文字が見えて懐かしくなった。大丈夫、そんながりがりしなくたって、私くらいの社会人にはなれますよ、なんて頭の中で回想した。夢中で鉛筆を動かし、消しゴムは勢いよく投げだされ、こつんと音がした。右には大学生がいた。初級の中国語の上に手帳が大きく開かれており「2女」という数字が見えた。ずっとスマホをいじっているあたり、勉強も飽きてLINEにでも夢中になっているのだろう。この様子もまた懐かしい。よくカフェで飲み物ひとつで凌ぎながら電源をもらい、携帯電話をいじりつづけたものである。高校生は一生懸命勉強した末に入ろうとしている大学で、こんなていたらくはしたくないだろうか?それとも、こんな女はご免だろうか?斜め向かいには同じようにカフェで仕事をするサラリーマンが見えた。ジャズと人の声でやかましい店内で仕事の電話をしていた。何か、問題でもあって調整をしているのだろうか。こうやって外で息を抜きたい気持ちは、痛いほどわかる。会社にいるとめまいがする。足元と脳の奥が浮遊感に冒される。1月から過食を止めるのをやめた。2月頃、左目が飛蚊症になった。4月頃、じんましんがはじまった。5月になって憂鬱さから抜けられなくなり、6月に入ると左目だけ視力が低下しつつあることに気付いた。これも、日に依るかもしれないが……身体の異変には気付いていた。しかし止めることも停まることも、自分には良く分からなかった。こうやって、消えていくのだ。「命を削る」という言葉を思い出した。日々の仕事に頑張って、成果を上げるために、寿命をすりがねおろしで粉にしているようなイメージだ。そもそも、この気だるい気持ちの因数をもう分解できなくなっていた。何が悪いのか、何がつらいのか。それを推測したりたどったり、原因分析が自分ではできなくなっていたのである。これはきっと重症なのだと思う。でも病院に行ってもどうにもならないし、これ以上朦朧とした頭で仕事はできないので、薬を増やしたり強くしたりする気もない。このまま凌ぐしかないのだ。その選択肢を自ら選んだのだから、粛々と受け止めるしかないのである。

ふと過食の罪悪感にかられ、かばんのポケットに忍ばていたダイエットサプリを手に取った。絵具の原色のような水色のカプセルで、見ただけで食欲が失せる。飲み込んでカプセルが胃で溶けると墨汁のようなにおいが食道から立ち込めてきて不快になる。脂の吸収を阻害するものだ。こんな気分を紛らすだけのものを摂取して、少しだけ罪悪感をとくこともストレス軽減のためだ。だから多分、このままでいいのだ。憂鬱な気分と、過食と、ダイエットサプリと、この繰り返しでどうせ、このままでいいのだ。

160606

飲み会ぶっちぎり

飲み会を"ぶっち"した。

会社の飲み会だった。皆で移動する時間に耐えられなくて、遅れて行く選択をした。仕事を粗方済ませ、お手洗いに立ち寄った。飲み会の前は必ず、化粧直しをする。アイラインと口紅を整えた。足は依然として重たく、胸の奥はどろどろとした重たい液体を溜め込んだようにずっしりとしていた。1階に降りるまでに決めよう、エレベーターで降りて、裏口から出たとき、足は行く予定だった場所と反対を選んだ。

帰ろう。

決めた瞬間、胸のどろどろが涙として身体の上部に押し上げてきた。そのまま、吐きたかった。ここ数日気持ちを和らげるために、信じられないくらい食べた。食べ終わっても、ヨーグルトやらジュースやらを摂取し続け、もう入らなくなると、ひたすら飴を噛み砕き続けた。隙間という隙間に口にできるものを詰め込みまくった。胃が気持ち悪くなり、次第に鈍いヒリヒリ感が胃壁を襲った。空気のような、何かがまずはじめに込み上げて、嗚咽だけが漏れた。情けなくなる。吐き出せない気持ち悪さと共に居なければならない。自分がむしゃくしゃして口に食べものを頬張り続けたせいで。自制に欠けて馬鹿らしい。

そして何より、立てる必要のない波風を立ててしまったこと。私が何気なく少しの辛抱で参加すれば、それかもともと行かないことになっていれば、当日になって来なかったことなんか目立たないのに。いや、誰も何も思っていないかもしれない、ただの自意識過剰かもしれない。あんなにお酒が好きで飲み会でわいわい騒ぐイメージの人間がたかが1回ドタキャンしたくらいじゃ、誰も何も、思ってくれないかもしれない。でもそちらのほうが良かった。整理のつかない気持ちのなかでも、ばれたくないとは思っていると思う。心にずっといる、ふわふわして視界を曇らせる灰色の物体。大きくなったり身を潜めたり、時に影を濃くして攻撃的になったり、薄く脳内全部を浸々にして、正常な思考を奪ったり。

ただ、この朦朧とした頭を抱えたまま右にも左にもいけなかった時間を抜けたように、涙を流せたことが、少しの救いだ。涙がでかけたとき、泣かないと、と思った。出るうちに出しきらないと、次にいつこの灰色を透明にできるか分からないから。

家の最寄り駅の文字を見て落ち着いた。家路を進むにつれて心が解きほぐされるような感覚になった。あー、家って、意外と落ち着いているんだな。落ち着ける場所があって、よかった。


160603

母の日

なぜかここ最近母の夢を見る機会が増えた。
また、微睡みのなか、骨にかわる母の姿を思い出し急に眠気が覚めることもあった。

母の日が過ぎるのを静かに待っていた。今年のプロモーションは、4月半ばの早めの時期からはじまった。数年前から流行りだしたプリザーブドフラワーは、すっかり市民権を得た。あまりにも高価な、ミイラ化した花は最前面に陳列されていることから見ても、店側として売らなければならないこと、しかしそれなりに売れてもいることが見受けられる。私もまた、それを手に取った。プラスチックのケースのなかで、息をしているかのような表情で死んでいる綺麗な花を。例年、母の日に何かしら購入していた癖で、何も買わないことができないよう、身体にシステムを組み込まれたようだった。私は土曜日午前中着で、田舎に郵送する手配まで済ませた。

その店では、メッセージカードがサービスになっていた。レジ横に設置されたテーブルに小さく切り取られた白い画用紙と共に、様々な色のペンが置いてある。徐に黒いペンで本当に短く、ひとこと書いた。"Dear mama" とか、そんなことだったと思う。そのメッセージに、毎年描き古しのカーネーションを、素早く荒く添えた。

簡単な彩飾を施したものを店員に渡し、宅配伝票の欄を埋めた。私は伝票に、故人の名を記した。店員は、私がメッセージをしたため、プレゼントを送ろうとしている相手がもうこの世にいないことを知らない。いや、もしかしたら耐えきれず溢してしまった涙のせいでばれたかもしれない。


160508-18

海辺の駅、海辺の空

みなとみらい線の駅は、何となく鬱蒼としている。
海辺の街に来るには少々薄着すぎた。雨の予報を確認したにも関わらず傘を置いてきてしまった。名刺を切らしかけていることが本日の憂鬱さに拍車をかける。

昨日の残りかけの飲み物が、鞄の容積を圧迫する。ホームのごみ箱を見つけ、足を止めた。勢いよく顎を持ち上げ、ぐいっと残りの飲み物を飲み干す。缶とペットボトルは、別々に捨てるように入り口が分かれている。しかし、その先でひとつのごみ袋へと再度集約されることを知っていた。入り口を覗きこんで、真ん中にパイプの仕切りがなければ、分別したあとに再集約するという、浅い善意の無駄遣いが起きることは容易に確認がとれる。ペットボトルの蓋を閉め直さないまま、少しだけ空中で弧を描くように本体と蓋を投げ入れた。

暗い階段を上り踊り場を180度振り返ると、急に外の明かりが地下からの道に差し込む。海辺の湿り気のある、一様に薄灰色の空がどんよりと待ち構えているのが見える。気の沈むような空は、よく眺めるといつもの天井のない空間を作り上げていて、不透明な白濁色は手で掴めそうだ。掴めば、手指の隙間隙間から、半固体がどろどろとねじりだされそうな、そんな粘度のものが空にあるのではないか、といった妄想や夢に近いものに駈られる。もしも空が掴めたら、掴めたところで何も起こらない、ただ本能のような生理的欲求に近いような、理性も何も捨てたような感覚に入り浸っていたい。


打ち合わせも無事に済み、変わらず厚い霧のような空は、光が幾ばくか柔らかくなっていた。自分の感情を高くぶちまけたようだ、と傲慢にも共感を持ち始めたにもかはかわらず、少し諦めた笑顔を向けられた気がして裏切られたかのような気持ちになった。

シャーデーのアルバムのマイナー調が、車窓の気だるい空気に下手(したて)に出るように澄みわたり、染みた。同じようなビートの、同じような曲調を奏でているように聞こえるにも関わらず、重ねて聴くと曲や歌詞や特徴が際立ってくるから不思議だ。

人は、嫌いでも不馴れでも、刷り込まれ続けることで慣れたり好意を抱いたりする。その、惰性で人の評価が変わることは大嫌いだ。本質を欠いた、長年の付き合いだから許されたり認められたりする人間関係が。


ーー脳内の連想の連鎖は、穏やかな感情を掻き乱してしまう、それが本当に好ましくない。不快である。


横浜駅まで歩くことにした。途中の洒落たパン屋で、中身のたんと詰まったクリームパンを買った。215円を出して53円のお釣りをもらおうとしたら、165円があった。店員さんが、215円お預かりします……あ、165円お預かりします、と答えた。一瞬、脳内の声が伝わったのかと思った。銀色の硬貨を見間違えたのであろう。
さて、いくらだったでしょう。良いことがあったとしたら、これくらいだ。



160427+