空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

悟り

空港に着き、ボーディングブリッジに踏み出すと、急にキンとした空気になる。脚から順に肌の露出した顔まで澄んだ冷たさの中に包み込まれる。歩みを進めると、キャリーバッグと床とが摩擦し、上陸に抵抗しているような重みを感じた。

新千歳空港は、搭乗待ちの広場と到着した乗客の通路とが、低いガラスの仕切りで区切られているだけだ。旅立ち前の浮かれた空気、売店の賑わいを横目に、ぞろぞろとせわしなく人の群れが階段をおりた。

手荷物受け取り待ちのレーンを横目に出口へと向かった。ゲートの向かいには、ダウンを着て腕を組みながら、まだかまだかと家族を待つ人でガラスの扉を覗きこむ人で溢れかえっていた。そこに、自分の両親がかつで二人で迎えに来てくれて、見つけしがた満面の笑みで手を振ってくれた姿を思い出した。

到着口の扉を出ると、もう中には戻れない。人だかりを抜け、通路に出ると柱の近くで父が携帯電話をいじっていた。声をかけると少し驚いたあとに、メールくれなかったじゃん、と注意を受けた。すぐ見つかると思ったから、と返した。そのまま駐車場に足を向けた。

駐車場に向けて外に出るとさらに気温は下がり、空気が引き締まる。しかし、東京に比べて寒く感じないことが不思議だ。北海道の人はだいたいそう言うので、私だけが思っていることではない。あの、東京の刺さるような風は、何年住んでも慣れることができない。

車に乗ると、ああだこうだと父と世間話をはじめた。だいたい私が会社の話を父に延々とする。しかし必ず最初に聞いていることがあった。お母さん、どう?だ。自宅療養している母の様子を聞くのだ。だいたい、うーん、と言って、少し良くない回答が来る。私はそれに、自分なりのポジティブな解が得られるようにするための質問を繰り返す。

今回はその質問はしなかった。何となく、聞きたくなかったからだ。

実家への帰路も中盤を越えた頃、次の帰省の話をした。ここのところふた月に1度のペースで帰っていた。次に帰るとしたら3月で、ちょうど母の誕生日くらいに帰れそうだ。

そう父に言ったところで、うーん、と、また父は言葉を選んだ。「その時になったら、入院しているかもしれないねぇ」

私はこの手の話のとき、だいたい無表情だ。自分では見えないが、恐らく死んだ目をしているだろう。感情を剥き出しにしないためのスイッチが心のどこかにあって、自分が困りそうになるとすぐ、私はそのボタンを押す。仕事でストレスを感じたときによくボタンを押してしまうが、反抗期のなかった高校時代にも、その顔をしていたような気がする。そしてここ数年、すぐ同じ顔をする。

私は、そっか、じゃあ2月も帰ろうかな?予定わからないよね、後で改めて話そう、と話題を切った。その時の顔もきっと感情を掻き殺したあとの、何も残っていないような目であっただろう。それを運転中の父に悟られていなければ良いが。

家に帰ると、玄関にも茶の間にも母の姿はなかった。母は奥の部屋で眠っていた。ここのところ寝ている時間が長い。ついに食べる量も減ってきたという。顔色や肌は、真っ白だったがつやつやに見えた。ただ、足に痛みがあり歩くのがとても辛そうなのだ。昔は女ひとりでは到底運べないような食器棚をひとりで動かし、模様替えをしていたものだった。その時の腕っぷしが振るえそうにないほど、母の腕は細かった。

不思議なことに、元気な頃の母の様子は悲しいくらい簡単に脳裏に描くことができた。むしろ、その場にバーチャルな母を再現できる気すらした。帰るたび、少しずつ動作をとりにくくなっている母を何度みたとしても、帰ったら玄関で、ふくよかでちゃめっけのある母が満面の笑顔でおかえりー!、と明るく張った声で迎えてくれる姿が目に浮かぶのだった。台所で作業をする姿も、探し物をして右往左往する姿も、ダイニングテーブルで椅子に座り、猫を抱きながら爪を切る姿も。記憶とは褪せたり消えたりするもののような気がして、私は頭の引き出しに記憶をしまうことが怖かった。だから、写真におさめたりして、引き出しにしまった記憶を取り出しやすいようにしたかった。でも、記憶とは、大切なものはそう簡単には消えないものなのかもしれない。いや、私の人の存在に対する記憶は合成されたもので、これまでの経験を完全に複写したものではなく脳内で作り上げた偶像かもしれない。それでも、元気な頃の母の姿に期待して、どこかでまた会える気がしていた。

母は奥の部屋のベッドと茶の間のソファのあいだ、時折お手洗いへの道しか行き来しない。ごはんのときにダイニングテーブルの椅子に座ることもなくなった。ソファは足置きもついていて、背中と足を自動でリクライニングさせることができる。だいたい足を伸ばしてテレビを見て、ごはんもサイドテーブルに置いて食べる。

この年末の帰省の前、私は母に手紙を書いた。とある平日、朝急に母から電話が来た。私は電話が嫌いで、実家と電話することも少なかった。それが、急にかかってきたもんだから出てみると、メールで済むような他愛もない内容だった。「あのね、膝掛け編んだからね、送ろうと思うんだけど。いつだといい?」答えて電話を切ったあと、涙が止まらなかった。母の心細い気持ちが伝わってくるようだった。その日の夜、寝るときに目をつむると急に、仮想の母がまぶたの裏に現れた。キッチンに立ってニコニコしている母が。私は泣きながら部屋の電気をつけた。思いのたけを手紙に書きなぐった。ずっと、書こうと思ってうまくまとめられなかったことを。夜中にしたためる手紙は、感情的で暴力的だ。経験則として、それは知っていることだった。でもこのまま伝えたかった。私はいつも以上に緊張しながら、手紙を郵便ポストに投函した。

それが師走はじめの出来事だ。手紙には、母がどれだけ周りの愛されていて元気になれば喜ばれるかということ、そして自分で頑張る気持ちにならないとよくならないこと、そしてまた母の料理が食べたいことを詰め込んだ。私は普段は滅多に開かない郵便受を毎日のようにあけた。左に2回、右に1回ひねり手間に引き上げる。目線より少し上にあるポストからチラシを引き抜き、底のほうまで指先で漁った。しかし、その熱の籠った手紙の返事が母から来ることはなかった。

実家で、母は自分で台所にたつことはなさそうだった。私はそれは母の諦めに見えた。母の抱える痛みは私にはわからない。しかし、自分で頑張ろうと強く思えば、乗り越えたり自力でできることもたくさんあるのではないか。私はそれを母にわかってほしかった。そう思い、私は母にも少し料理の下ごしらえを手伝ってもらおうとした。焼き餅をつくるときに、さとうじょうゆを混ぜる皿を母に渡したのだ。最初混ぜながら、砂糖が足りない、と言った。量を増やして再度渡したところ、「やだ!」と言って皿を突き返したのだった。

その時、私は十二分に悟った気がした。母はもう、自分でなにかをする気がないこと。頑張るのではなく今の生活のままなだらかに過ごしたいこと。そしてこれは自宅療養ではなく、自宅介護なのだということ。そして父は恐らくもっともっと前から、この生活を介護として受け入れていたこと。私は母の病気が見つかってからこの実態を受け入れるまでに2年近くかかったこと。

母にその気がないとなると、私はもうどうしようもなかった。娘として、このまま衰えていく母を見過ごすことはできないが、本人にそのつもりがないのに何が出来るのだろう。いっそ頑張らないと言ってもらえたらどれだけ楽か。でもそんなこと、口から出させてしまえば魔法のようにいっしゅんで弱ってしまう気がする。

外の空気を吸ってほしくて、お詣りに一緒に行きたい、無理やり外に出そうかと思っていた。しかし、痛がる母の顔を見てその勇気は途絶えていた。

母の代わりもふくめ、父と3つ引いたおみくじ。家で母に最初に選ばせ、私が次に引き、残りを父が開けた。母が健康の欄を見て、「ゆっくり治しなさい、って」と言った。私のおみくじには全快の兆しありと書いてあった。私がこのおみくじを引いてしまったことに罪悪感をおぼえながら、そっとおみくじをしまった。


160103