解決すること
時に悩んで堂々巡りし、解決の糸口が見つからずに悶えることがある。もしかすると"悩む"ということすら能動的なもので、何もできない、何もしたくないという無気力さしか存在しないこともあるかもしれない。表面張力ぎりぎりまで敷き詰めたガラスのコップが、ちょっとした揺れでふるふると水面を揺らし、同一円心状の並みが限界ギリギリで震えているような、そんなイメージだ。
そんなときどうしたらいいのだろうか。
コップの水を溢す方法を、考えるだろうか。溢し方はどうする、心の広い友人に思い切りぶっかけるのか、トンと突いて漏れた水をインク代わりに書きなぐるのだろうか。むしろ宛もなく壁にぶつけて、ガラスが粉々になるくらい暴力的になるだろうか。
いずれにせよ、いっぱいいっぱいの気持ちを少し処理したあとに必ず出てくることがある。それは、「解決策を選ぶのは自分だ」ということだ。残念ながら、どれだけ悩もうが泣こうが愚痴ろうが、自分で答えを導きだすしかないのだ。
ーー"解決したい"のなら、であるが。
世の中には不思議にも、解決を必要としない悩みがある。たちの悪いことに本人に自覚はない。ただストレスの発散先として、体内に醸造された溢れそうな感情を迸らせた先に、何もないことがある。
もし繰り返したくないなら、つまり解決したいのであれば、問題に向き合って絡まった要素をひとつずつ紐解き、原因をAとかBとか、ラベル付けした箱に振り分ける必要がある。それで、直せるもの、どうにもならないものを整理したあげくに出来ることからやっていく。人間は教訓を重ねてここまできたのではないのか。
しかしそんなに悩みとはロジカルではないのも事実だ。
「じゃあどうしたいの?」
何もかも言いきったあとに出てくるコレ。この問いにスムーズに答えられる人は、少なくても感情が爆発してしまった人にはないのではないだろうか?
聞き手はまさしく、何とかしてあげたい気持ちと、同時に話を聞き終えたあとにどんなアクションを求められているのかを聞きながら模索する。
そもそも聞きはじめで、相手がどうしてほしいかを見極めてから聞く必要があって、感情的になって、ようやく話す相手を見つけられたような人に「じゃあ、どうしたいの?」は厳禁だと思う。信頼して話したのに、と絶望と不信感しかないであろう。
関係性にもよるが、正直言って私はそれは損だと思う。長い目で見て、その発言で失うものはそれなりにあると思う。特に仕事などにおいて、小さな伏線が時間をかけて足かせになることは、残念ながら人間関係として容易にあり得る。
ではどうしたらいいのか、というのには悩む。世には、とにかく同意してあげなさいとか言葉を繰り返すことで受け止めてもらえた安心感があるだか、そんなことを言うものもあるが、それらの効果を期待して振る舞っていることがばれてしまうと話す気が失せてしまう。
結局、人に自分の深い部分にある綺麗で楽しくない部分は、伝えたところで相手に与える良い効果は何もない。イーブンな関係なら、それで結束が深まっているのなら良いのかもしれない。しかし楽しませられないのならエゴなのではないか、そう思うと伝えることに疲れて口をつぐんでしまう。
ここで、自分が自分らしく生きるという、世では当たり前のように言われていることを思い出す。自分らしくとは何なのか、自分がしたいように生きるとはなんなのか。そしてそれらとエゴの違いは何か。好きなものを食べ、好きな遊びをし、好きなときに寝ればよい。そういった自由に言及したいのではない。場の中で 1 でしかない自分ではなく、1対1、または1対グループで存在する自分に関して、生きたいように生きるとは何なのか。
これは極論なのかもしれない。
だって、集団でいればリーダーは必ず生まれ出かけるなら最低でも集合場所くらいは決まる。優柔不断な人間の塊でも、そのなかでランクわけされて決断をするようになる人間は生まれる。それは生きたいように生きることと違うのか?生まれてしまった役割を全うするだけなのか?それは言い出したらきりがないかもしれない。
とにかく人との会話において、相手にメリットない会話に対する意味を見いだせないとき、それをどう扱うべきかは悩ましい。
言いたい、聞いてほしいという気持ち。
自分の相手の中での存在意義を考え、発言は好ましくないと思う気持ち。
この二つの思いが相反して、余計に思考がぐるぐるしてしまう。
ところで、会話に意味はあるのか。会話そのものの意味より、会話をすることで生まれる関係性に意味があるように思う。最低でもプライベートな空間では。
言葉とは、文章とは何か。これこそまた堂々巡りしそうなので、後日改めて思考に取り組みたいと思う。
160225