空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

カクテル

バーのカウンターの薄暗いテーブルに、季節遅れの鬼灯が、カクテルの本の上に飾られている。今日の季節のフルーツカクテルには、五島芋やラ・フランスが並んでいた。ウォッカをベースにしたとちおとめのカクテルが人気だというのでそちらをオーダーした。春のイメージだったいちごも、ここ数年ですっかり初冬の果物として定着しつつあるようだ。コンビニの季節モノのお菓子にもいちごのラインナップがずらりとある。

フルーツカクテルは、アルコールを感じさせないのが腕の見せ所だという。大きめのグラスにいちごを詰め込み、棒でつぶしながら果汁を絞り出していく。種とそこから続く筋が、耐えて形を残し、食感の役割を担う。カクテルにすると甘味より酸味が勝ってしまうので、少しだけ加糖する。この、砂糖やグレナデンシロップを少し加える儀式が、不思議なことに、フルーツカクテルをよりフルーツらしい味わいに変える。粒々としたフルーツの飲み物が出来上がる。ジュースのような感覚で飲み進めると、気づけばアルコールが脳内を侵食しているものだから、本当にいじらしい飲み物なのだ。

25歳、生まれて四半世紀と名乗れるのも残り1カ月ほどとなった。初対面で早生まれを説明するのも億劫で、数え年で答えるようになっていた。そのため、常に実年齢より1歳年上であるような感覚に陥り、自分の年齢が分からなくなる。バーを語るにはまだ早いと嘲笑われるかもしれない。しかしこの、一杯千円以上するような飲み物を少し飲むことが、生活に贅沢を彩るのである。賃貸の部屋はワンルームで、窓から冷たい空気が流れ、車の音が絶え間なく聞こえてくるような決して贅沢ではないものだ。ぼろぼろの家に住む私にとって、この一杯をゆっくり舌と喉に滑らせることそのものが、幸福なのである。

ふと、理想を固めた偶像的な自分と現状の自分を較べる。いや、この思考行為は絶えず気づけば行っているある種の癖なのである。早い歳から、女性らしさを振りかざすことを恥じてきた。かつて二十歳頃は、そのような明るい女子を見下していただろう。パステルカラーのチュニックやシフォンワンピースを身にまとい、同じような髪や服を選ぶ彼女たちを流行という没個性だと思っていた。しかし、今思えばそれは強がりだったように思う。「オンナノコ」として振る舞いきれない自分。その時 没個性化 していればできたような服ももう着られないだろう。気づけばかわいらしさを着飾る年齢を越え、今も私は年齢を重ねる恐怖と本来の幼さの狭間で揺れていた。少しだけ自由になったお金を、身の丈に合わない使い方で消費し続けて、私は私らしく、を呪文のように心の中で唱えた。私はその「私らしさ」を知らない。思うがままに生きることは私の性に合っていない。言ったこと、やったこと、それの意味付けとどう解釈されるか、そのようなことばかりが頭を占領してCPUはいつも100%に近い。その息抜きについ、高い居酒屋やバーに行っては散在するのである。周りの人間は貯金しているの?と笑った、しかしいいんだ、いつ死ぬかなんて分からないんだから。

こんなこと、真顔で言ったらきっと笑われるであろう。父と母のことは、近い将来でないように祈ってはいるものの、ちゃんと看届けたいと思っている。ひとりっこの私は、両親が生き、出逢い、愛した証を私を介して残したいという気持ちも強い。しかしそこには私の私に対する愛情が欠けている。社会に出て数年がたち、少しだけ世の中を学んでしまった中途半端な感覚。これが、私の強がりな語気を一層あらげていた。かわいくない自分。生意気なことを言っていることは、自分でもよく判っていたのだ。しかし、自分という存在の不確かさを掻き消すべく、人には近寄ってほしくなかった。近づいてくれる、稀有な優しい人間にはもれなく傷をつけるような言動を擦り付けてきた。粘着質に、粗いサンドペーパーでプラスチックの表面を撫でるように。それでも離れない人間を私は侮蔑したし、応戦してくる人間には趣を感じて、言葉尻の鋭利な言葉を投げ続けた。その、キャッチボールにならない会話に自分でもあきあきして疲弊した。しかし、身の守りかたを知らなかったのである。

誰が、こんな人間を受け止めるであろう。自分でも、理解しているのだ。自分で判っていること、それを伝え受け入れてもらえるのであればどれだけ甘えられただろう。そう思いながら、受け止めようと構える人間、稀にそんな人が現れたりしたら、威嚇をしながら簡単に懐柔されてしまうのである。

終電もなくなったようなバーには、酔いに任せて開放的になった紳士が、大きめの声で脳内に浮かんだ言葉をそのまま口から放つ。バーテンダーは、まずは話を聞き、引き出し、時折悟りながら語りかけるのが仕事だ。今日は「12月は忙しいですか」と全ての客にきいているようだ。店の会話が耳にはいる。とても面白い。好奇心とともに、私はこの店の空気でいられればいいのにと思うのである。自分には焦点を当てないでほしい。存在を消してほしい。誰にも、私のことを認知されないでいたい。

その意味で、うるさいカフェが好きだ。若い女性の他愛もない話に喜怒哀楽が散りばめられる。勉強に勤しむ学生は、ノートを下敷きにスマートフォンをいじる。サラリーマンは手持ちぶさたの時間潰しにコーヒーを頼み、中途半端に20、30分で席をたつ。その空いた席に、学校帰りの高校生が座る。彼らは会話をするという目的で会話をする。思い出すこともないであろう、日常の些末な出来事をつらつらと口から吐き出すのだ。それは、酒を飲んでいてもいなくても変わらない、頭に浮かんだことを思考を介さず、駄々漏れにするのだ。私はその人混みのがやがやした空気にひとりで溶け込むのが好きだ。ある意味、大きめの音量の音楽とそれを伝えるカナル型イヤホンの没入感に同じ役目を感じる。私の脳内の余計な思考を遮ってくれればそれでいい。人混みのなか、大多数のなかのひとり、そうやって自分の存在の粒をどんどん小さく柔らかくしたい。誰からも認知されない、多数のなかのひとり。それでいい。皆、私のことなど忘れてくれるといい。普段は語気の強い、わあわあとうるさい私を。忘れてほしい、そんな私は私も嫌いなのだから。

このような、排他的で陶酔的な感情には年に何回か襲われる。月に1回、憂鬱な日々が訪れ、数カ月に一回それはたいそう酷く現れ、さらに年に何回かは自分の心の中の様々なコードが絡まり、解けなくなる。そんなときにむしゃくしゃして生まれた作品は暴力的で、なおかついとおしい。それは文章でも音楽でもそうだ。私は人間らしさを愛する。割りきれない汚い感情、理性で避けられない扇情、一筋縄には整頓のつかない利害の均衡の維持、衝動的な言動、恐らく数時間後にすら悔いるようなそれらは、きっと悔いる瞬間に恥じらいや忘却欲が生まれるであろう。しかし、それはさらに日にちを重ねると醸成されて、人間らしさとして宝飾品になっていく。ト書き通りの模範的な生き方のどこに、興味を孕む余地があるだろうか。私は人の失敗を見ると安堵し、悦ぶのである。ああ、この人も人間なんだなと。ニンゲンであると判れば、もっと知りたくなる。もっと、フツウから逸脱した貴方を知りたいと思うのである。それが私のなかに存在しない感覚感情であれば、尚善い。知らない世界を持つニンゲンであるほど、簡単には知りきることのできないもどかしさとともに興奮を覚える。底をつかないでほしい。その、フツウじゃない側面は底無し沼であってほしく、私の好奇心により探られたとしても、腫瘍と放射線治療のように永遠に鼬ごっこをしたい。その身体はいつか滅びるのだろうか、もう見つけられなくなるぐらいなら滅びてしまってほしいのだ。堕ちるところまで、堕ちきって、逃げられなくなるほど、ニンゲンが見たい。

その欲が、人には分からないらしい。一度スイッチが入ってしまうと、自分のなかのそのニンゲン用のキャンバスに、アウトラインが書けないと気が済まないのだ。どんな人で、何が好きで、どんなときにどういう思考になるのか。少しずつ情報を集め、筆を一点一点置きながら、淡く絵を完成させていく。時折気が変わったり、異なる印象の固定観念に晒されていたのであれば、筆を乗せて上描きする。その絵はもちろん、出来上がらなくていい。簡単に描ける絵では飽きてしまうからだ。やはり底無し沼であってほしいのだ。

この作業もまた、疲れるのである。人と人との距離の詰め方に関しては、大変下手であり、また苦手だ。もし人が自分から自分の話をしださなかったら、問いかけるしかない。その問いかけがどうしても下手なのだ。その点、バーはマスターと無理して会話をする必要もなく、たいへん楽な空間だ。私は酔いに任せてこの文章を殴り書き、その横でおじさんの大声にマスターが付き合い、2人組の女性客がああだこうだと話をしていた。ここの、空気になれたらいいのになと、思うのである。


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