空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

帰省

      • 実家帰るの?いいじゃない、だらだらして、食って寝て、夜中まで起きてて、昼頃まで寝て。なーんにもしない。でしょ?

昔は実家に帰るのが楽しみだった。今は足が重く憂鬱で仕方が無い---こんなこと、本当なら言いたくないが---私はひどく疲弊していた、日々弱る母の姿、もうきっとできない、だらだらした帰省。
そんな私を察してか、父はよく働いた。よく家事をして、よく母の面倒を見て、怒るでもなく、それはむしろ昔からそうであったかのようにすらさ見えた。私は少し甘えたが、父が疲れていく姿もまた堪えた。父はよく皿を割った。よく、お願いしたことをし忘れた。もしかしたら、昔からそうだったのかもしれない。それでも私には今の出来事が結びついているようにしか見えなかった。

あの日は偶然が続いた。
たまたま昼2時過ぎにごはんを食べていて、電話嫌いの私がたまたま父からの電話に出て、そこから、私の色んな人生の道が変わったように思う。
地下の蕎麦屋は電波の入りが悪かった。店を出て、電話口の父の声を聞いた私は、何故か冷静だった。混乱した人や状況を前にして、人はむしろ落ち着くものである。
父は泣きじゃくっていた、父が泣くのは祖父がなくなったとき以来で、私は何となく覚悟をした。

母に腫瘍が見つかった。
精密検査の結果はこれからだが、もう遅いかもしれない。
思わず、すぐ帰るから待ってて、と答えた。東京からそこへは、6時間の遠出だった。
幸いにも上司の理解があり、飛行機を押さえると私はすぐに家に戻った。身支度をしているうちに、まるで幼児後退をしたかのように叫んだ。母が編んだぬいぐるみを抱いてベッドへ転がり込んだ。家を発つまで1時間。時間は長く感じた。普段は見れないワイドショーをかけて、速く浅い息を繰り返した。
夢かな、どうしてリアルな夢を見ることはあるのに、これは夢じゃないんだろう。
頬をつねったりしても、抱えるぬいぐるみの編み目やベッドシーツの起毛した布地は、しかと肌を押し返した。夢でも嘘でもないことは、本当はよくわかっていた。
ある意味相反する考えが頭の中をぐるぐると巡り渡った。
田舎から上京して、年の離れた母を持って、いつかは来ることを覚悟していたじゃないか。
どうして、母じゃなきゃいけないんだろう。

あることないことが過る。これは私への試練なのだろうか、いや、母への試練かもしれない、母は私の知らぬところで罰が当たるようなことをしたのだろうか、それとも人生の幸せを使い切ったんだろうか。
荷物をまとめ、まずは家を出ることにした。冬の冷たい雨がまた、私を追いやるように感じた。道行くなかで、ぴんぴんしたお婆さんを見かけると、どうして私の母が、という思いは強まった。
人一倍、健康に気を遣ってきた母。
人一倍、家族や友人といった自分以外のために尽くしてきた母。
私は何か足りなかったのだろうか。いや、十分尽くしてきたはずだ。
そう思うと、母親を大事にできない知り合いなどを思い出して腹立たしくなった。その人がこういう思いをすればいいのに。その人の母親が病に臥せばいいのに、とすら思った。心が狭くなっていたように思う。



地元の最寄り駅の前では父が車で待っていた。昔なら母が最上級の笑顔で、おかえり、と言って手を振ってくれる場所だった。まずはいつもどおり、ただいま、と答えた。しばらく足を病んでいた母は歩かなくなってしまっていたため、駅前には来なかった。
コンビニの駐車場で、私は細かな質問をした。会う前に出来るだけ受け止めて、母に何事もなかったかのように明るく振る舞いたかったからだ。手術は出来ないの?でも、治らないわけじゃないんでしょ?私は一見冷静なようで、父の答えを誘導するような、希望めいた質問を投げかけた。父は真面目で、出来るだけ事実を答えた、それは、私の希望めいた気持ちを悉く潰していった。

20代前半ながら、私にはある夢があった。それは、母に孫を抱いてもらうことだった。
私は母方の地元で育った。ひとりっこで母方の親族では一番末っ子で、それだけでたいそう可愛がってもらった。しかし、祖父母に抱いてもらったことはなかった。母はきょうだいの生まれ育った家を守り、両親の看病をいちばんやってきた。看取ったあと、6人きょうだい最後に結婚し、高齢出産で私が生まれた。私がこの世に現れる前に、二人ともいなくなってしまった。
母がよく、おじいちゃんおばあちゃんが生きていたら、すごく可愛がってくれただろうに、と言った。私は田舎で商社を営んでいた祖父と家を支えてした祖母に会ってみたかった。なので、私は30手前で結婚して、子どももその腕にかかえてもらって、それが親孝行になるだろうと思っていた。

母は私の友人たちの母よりよっぽど年上だったが、それでも実年齢より若く、可愛らしいと言われる母がとても自慢だった。若くて可愛くて料理がうまくて、縫い物が好きで子ども想いで夫想いな、本当に大好きな母だ。

その夢を打ち砕くようなことを父は言う。私の現実を避けるような質問は、今思えばかえって酷だったかもしれない。父は、そんなに長くないらしい、もう手術もできないし転移もある、今年どころか、あと数カ月で居なくなってしまうかもしれない、と言われた。

そして、覚悟してほしい。そう言われた。

父はどんな想いだったろうか。父方の祖父は十数年前になくなったが、祖母は健在である。いくら姉さん女房とはいえ、母親より妻の命を生々しく思い知らされるなんて、あと何十年も共にするだろうと思っていた人が、あと1年いないかもしれないなんて。ただただ、私たちは親子で、涙を堪えず、話し合った。それは十数年ぶりの出来事だった。

玄関で、ただいま、と明るい声をつくると、私は表情を顔にセットした。





細かな灯りのつくる道に、飛行機が順番を待って並んでいた。前を走る機体は足元を照らして進み、地面を照らす明かりは徐々に見えなくなるが、翼の先を飾る二つの明かりが、離陸を仄めかしていた。
2台ほど見送り、この機体はアクセルを踏んだ。角を曲がった。灯りの道は見えなくなり、ひとつひとつの明かりがただ左から右へと消えていった。静かだった機体は急に雄叫びをあげ、助走の歩幅を段々縮めていく。その線を超える、決死の覚悟を表現するように。機体は軽く地を跳ねて、その勢いで身体を空に委ねた。
足から翼へ、そうするとこれまで同じ目線にいたはずの明かりはどんどん小さくなり、瞬くようになった。それは手で掬い集めても指の隙間から零れそうな程細かく、明滅を繰り返して、其処に在ることを訴えてくるようだった。時折ふと輝く力を弱め、また瞬き出す。真っ暗闇で見えない雲がその灯火を遮っていたようだった。時に、伝わらないような強さで、でも必ず其処に。いつか、消えてしまうのだろうか。
とはいえ、東京の夜は本当に美しかった。波目の見えぬ海には照明がいくつか輝き、その海面へ反射する光で其処に在るものを視認できた。


140815