空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

手のひらの傷痕

会社から駅まで、早歩きで5分強。
目の前の雑誌にひととおり目を通して、企業名を拾うくらいならまだできる。ギリギリ間に合う。

何事も最も大切なことは準備だ、と私は思う。事前に資料を用意すること、そのために何を話すか考えておくこと、起きることを想定すること、自分の手中に納め事を運ぶ逆算をすること。

時には心のそのものの準備をして整えること。

仕事で見本市を歩き回り情報収集をすることがあり、明日朝もまただだっぴろい空間で同じようなものを広げ、見知らぬ人に声をかけてかけられてを繰り返す、あの空間にいくことにした。

そうして、目的を持たずに歩いて時間を潰した日を思い出す。眠気で脳内が朦朧として、人だらけの通路を右往左往するだけで、やったつもりを味わおうとするあの感覚に嫌気がさす。私ももうそんなに若くないのだ。後輩の企画書作りに偉そうにああだこうだ言うような立場になりつつあるのだ。行動に意味を持たせなければならない。そのためにはやはり、準備が大切なんだ。

急いで最後のひとりに挨拶をして会社を出る。職場は地下鉄の駅が最寄り駅なので、終電が早い。この地をそもそも発てないと家に電車では帰れない。あの人も同じ終電のはずだが、そう思いながら色々考える。夜中も走るバスに乗って帰れば間に合うのか、それとももうひとつの宿があるのだろうか。後者だとしたら、家庭がうまくいっていないのか、良い人でも他に見つけてしまったのか。

急ぎ足で改めて電車を調べると、なんだ、思ったより終電は4分遅かった。急ぎ損だ。いや、コンビニに寄れるな、駅ビルのコンビニに立ち寄ることにした。

冬の帰り道、この終電間際は何となく肉まんを欲しくなるのだが、コンビニの温かい食品は大体品切れだ。東京だからっていつでもなんでも手にはいるというのは、嘘である。オフィス街や住宅街の、夜中に人が落ち着く場所では、揚げ物やおでんは夜中に姿を消すのだ。そんなことを思うのも、じゅうぶんに贅沢なことだが。

今日はたまたま、2つ残っていた。街中のコンビニにはこの時間にはレジを一度閉める作業をするようで、レジ付近には人がふたりいるのに終電間際に駆け込んだ客が列をなし、なかなか冷や冷やする。

小銭を触るのも面倒でポイントで買い、袋入らないです、と紙袋を手に取る。熱々の蒸気が紙の中でうずくまり、暫くは、ついついべたべた触ってしまう。

そのうち、私は自分の手の甲を見る。左の手の甲。指輪は利き手ではない左につけることのしている。大抵中指につける。そうすることで、人差し指の下の方の傷痕が余計に目立つ気がする。でも、私は指の拘束感にちょっとした安堵を覚えて、同じ指に飾りをあしらい続ける。

不思議なことに、緩めの仕上がりの指輪でも、常につけておくことで指は心なしか細くなる。ほんの少し華奢になったその指を見ると、さらにこの指を何かと繋いでおきたくなる。

手の甲の傷は、数カ月前にアイロンで焼いてしまったものだった。水膨れがひどく、傷が埋まるのにすら1カ月ほどかかった。人に会う度にどうしたのかと訪ねられるほど、その傷はよく目立った。グラスを握る手、資料を指さす手、楽器を演奏する手、机にそっと乗せた手、そして、指輪をまとった手。人の目は少しだけ、そこを見た。もしかして一生残るかもしれない。自分がちょっと不注意をしただけ、こんな下らない理由で。この傷には恨みどころか思い出すらない。ただ周りより少し赤黒いだけだ。白くて綺麗だねと褒めてもらえた手の上に、見た目を汚す線のような痕。

ただ、心配性の母がこの傷に触れることがなかったことだけ、ふと手を眺めると思い出した。思い出がないことで思い出されることもあるものだ。

いつもの母なら、そう考えては脳内で再現を試みる。そしてほとんど完璧に表現できる。私の脳内はきっと世の中で一番そっくりさんのモノマネ芸人だ。
どうしたのぉ~!もう~、大事な手なんでしょぉ、楽器弾けなくなったらどうするのぉ~?

少し可笑しいくらいに思い出せるのに、完璧な再現に満足したあとにやはりとても悲しい気持ちになる。

思想や記憶は、物理を越えられないのだろうか?いつか、脳内の散らかった引き出しから見つけられなくなりそうなたくさんの記憶、見つけられないことも思い出さないかもしれない些細な出来事、忘れたいのに何度も刷り直して美化される思い出、それらはどれも目に入った物体との関係性によっては否応なしに頭の最前列に呼び戻される。そして否応なしにその時の感情が少し染みだす。あの、きれいで不気味な山奥の病棟の、生暖かい色の部屋のなかで、鼻や腕が管だらけになって寝ている母が、いつまでもこの傷に気づいてくれないあの情景は一瞬で思い出される。

傷を眺めていると、家の最寄り駅についた。待たなくてもいい信号を待ちながら、頭のなかの片付け方をぼーっと考えた。


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