空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

インターネットとクロール

目の前には分からないモノだらけだ。
 
そこには膨大な情報があり、そこにある物体が何なのか、私の中で完全体として彩色するために膨大な空間から絞り込むためのキーワードを放り込み、そうすると情報はいくつかは呼び出されるけれどもそれでもまだ多い。そこから自らの思考で必要だと判断し組み合わせて、最初に書いたアウトラインにピースを嵌めこんでいく。時にその輪郭は初期設定を誤っていて、構築のし直しを繰り返す。時折カタチになりきらないモノがある。探っても探っても、知ることのできないものがあるのだ。どれだけパーソナルな領域に潜り込み、そのモノが生み出したもの、関わりを表明したものを読み漁っても、それは表面の飾りつけにしか過ぎず、ヒントにしか過ぎない。自分が知りたい真理に至るには、本当は直接確認をしに飛び込まなくてはならない。しかしその確認が、作業として必ずしも欲しい解を生み出すとは限らない。場合によっては、何か薄気味悪がられたり疎まれたりして、解を探す手立てを失うこともある。方法を見極めなければならない。とはいえ慎重になりすぎると、結局何も知ることが出来ない。表面を掠るだけの情報だけ山ほど出てきて、そのモノがなんなのかを自分なりに知ることは永遠にできない。
 
相反する感情として、“知り切りたくない”という思いもある。ずっとブラックボックスであってほしい。掴もうとしたら、手のうちから滑り落ちてほしい。どうか手に入らないでほしい。永遠に憧れつづける対象でいてほしい。分かりすぎることが失うことに繋がりそうで、一線を荒々しく、はっきりと引いてしまう。それは釣れる可能性のあった獲物なのに、危険を察知して逃げて、二度と近づかないかもしれない。そうすると私は分かりたかった真理を得る機会を二度と失うのかもしれない。しかし、それが本当に一生もう訪れない機会なのかすら、現在を生きているうちは分からない。分かってはいけないし、分かってしまう=“知り切ってしまう”と急に興味を無くす。
 
自分で自分が本当に面倒くさい。知りたい衝動とそれに基づいたクロール行為、一方、近づきすぎると力づくで離したくなる感情、どちらもが強いと、精神的に破綻することがある。自分は、どうしたいのか。しかしその全ての出来事を俯瞰的に見て楽しんでしまっているのであればもう、どうしようもない。自分が苦しい姿を自分で楽しんでいるわけなのだから。それに気づいたときはもう、諦めて自分を放っておくことにする。考えることはやめる、その瞬間に流れてきた今をただ消化し続けることにする。そうすると一気にラクになる。そして楽しくなる。でも、瞬間を消化することが中毒化すると、結局は全体像を見失う。
 
 
最近「数年後どうなりたいとかって、あるんですか」なんて聞かれてしまうことがあった。とハッとした。放棄してきたことだったからだ。

太く、短くで良いんじゃないの。じゃあ、今を考えすぎないで何事ももっと気楽に接したらいいんじゃないの。そしたら、得られるものもあったんじゃないの。今しかない若さ、明日には失うかもしれない興味、ひとつひとつを思う存分味わったら、すぐ吐き捨ててもいいんじゃないの。
 
そんなていたらくで得られたものって価値があるの。その場で流されて、流れ込んできたものばっか鵜呑みにして太くなった人生なんか、意味があるの。悩み苦しんで、その時期は醜態をさらけだしつづけたとしても、大成すれば良いんじゃないの。だったら、まだ若いんだから諦めずなんでもやってみたらいいんじゃないの。
 
やはり気持ちは相反する。正しいかどうかはわからない。このふたつに恐らく、私は解を出さない。その消極性により、いずれにせよ消去法で「瞬間の消費」の状態になってしまっている気がするけれど。
 
 
そうしてこの、机でひとりで誰にも詮索されずにできる行為をついときたま実行してしまう。それっぽいキーワードで、自分の手のうちにあるこのデバイスが呼び出せる、膨大な情報量を過信して、知ろうとして、結局分からない。どうあがいても分からないモノに、なんだか感情が高ぶって目に涙が浮かんだりする。その涙の事情は自分でもよく分からない。結局自分という身体に入りこんだ自分という感情体は、良く分からない。
 
検索ボックスに入力したキーワードを消すと、ブラウザ内の画面は真っ白になる。
いちからのスタートに辟易して、タイピングの手を止める。
 
 
160306