空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

現実は理想みたいなドラマの美しさを持たない

目の前には淡々と過ぎていった事実しか存在しない。その出来事をどうとらえるかは自分次第だ。

コンサートでホールでの演奏聞かせてあげられてよかったじゃないか。おいしいお土産、毎回たらふく買って帰ったじゃないか。どこかに行けばその写真を送ったじゃないか。ライブの録音、いっぱい送ったじゃないか。2カ月に一回帰って一緒にたくさん時間を過ごしたじゃないか。余命あと少しと言われてから2年も、一緒に時間を過ごせたじゃないか。

奇跡なんて存在しない、今から突然回復することなんてない。むしろ奇跡であれば2年も自宅で猫や家族と過ごせたことが奇跡だった、そう思おうじゃないか。

誰だって必ず経験することなのに、どうしてこんなにも悲しいのだろうか。どうして居なくなることをマイナスにしかとらえられないのだろうか。

果たして一生として、これは不幸だったのだろうか?事実を受け止めた上で、思い通りに過ごせていたのでは?じゃあなんで、私は悲しい気持ちなのか?苦しそうで痛がっているから?今はそうだとしても、全体で見たら正解だったのでは?本人が幸せであることが私にとって幸せなのでは?なんで笑顔でいてあげられないんだ?
そんなことをぐるぐると1カ月近く考えていた、うまく眠れない日もたくさんあった。

上京して8年。地元を離れると決めたときから独りっ子の私はいずれこういう状況に陥り、こんな気持ちになると腹をくくってきたつもりだった。

目の前で、もうどうすることもできないということがあるなんて、こんなにめざめざと突きつけられたことは無かったかもしれない。

孫を見せられなかったのが悔い、そう言ってみたら握った手を軽く握り返してくれたけど何もできなかった。

思っていたのと、違った。
ドラマで描かれるような、窓からの優しい木漏れ日のなか、穏やかな表情で、静かに最期のひとことを吐き出し、多くの家族に見守られ、すっと息を失うのかと思っていた。
さいごに、何か言いたいことを聞けて、それを胸にしまっておけるものだと思っていた。いまの状態ですら、それが無理なのは明白だった。


私の誕生日の翌日、母は倒れた。
朝、電話がかかってきて、弱々しい声で他愛もない話ばかりした。まともに会話と言えるようなものはそれが最後だった。

ここ数カ月で、返ってくるメールの文章もどんどん短くなった。返事が来ないことも増えた。
秋頃には本当に忙しくて、たまにのメールもなかなか出来なかった。
出来る限りのことはしてきたつもりだし何かを後悔をしたくはなかった、それでも、具合が悪くなり出した11月頃にもっと話したりできていたらというのは心残りだ。

目の前で苦しそうにしている姿を見て、早く楽になってほしい気持ちと握っている手から体温がなくなってしまう恐怖とで揺れた。それがいつであっても、私が思いを馳せたキッチンで料理をする母の姿はかえってこない。それだけは確実なのはわかっていた。頭のなかで何回も再現した、もしかしてそんな出来事なかったかもしれない、でも夢にまで見た姿を消したくなくて何回も再現した。

病床の母からはその、かつての姿はたどれなかった。頭のなかの残しておきたい記憶に上書きされそうで怖かった。

病気とは思考も歪んだものにするらしく、看病した父や時に私にも攻撃的な言葉を放った。一緒にやりたいこと、もっとあったよなぁ。せめて話したいこと、もっとあったよな。話続けると怒りそうで、話せる感じではなかった。私はいつも要らない空気を読んでしまう人間だった。なんでこういうとき、すらすら他愛もない話ができないんだろう。母の言葉にはいともいいえとも言えなくて、攻撃的な目線や言葉をただ受け止めるしかなかった。

看病も、飲み物を飲ませたり、さすってあげたりはできても、もう手を握るしかできない。もう、ただ淡々と、受け止めるしかない。何回も言い聞かせては、ただ現実からの衝撃をどれだけ軽くするかに努めていることは自分でもよくわかった。今が長引いても誰も幸せになれない。全員辛い。

もっと、自然の摂理として受け止めたいのになんでこんなに悲しいんだろうか。言いたいことも伝えられないでいるだろうか。汲み取ってあげることも出来ない。もっとやりたいことがあったのではないだろうか。

金曜日、あわてて仕事も中座して帰ってきたとき、足取りは重かった。間に合わないかもしれなかった。絶対、自分の目で、見届けたかった。一秒でも早く行かなければならないのに深呼吸が必要だった。緩和ケア病棟は山の上の上のほうにあり、すでに暗がりの病棟を進みながら何度も足を止めた。冬の特急はいつも通り遅延していた。しびれをきかせた父から不在着信が入っていた。その通知を見たのが病室まであと少しの距離、改めて深呼吸をしてキャリーバッグを引きずった。

間に合った。息も絶え絶えで父と伯母がベッドを囲んでいた。呼び掛けると、聞き取れるか聞き取れないかの滑舌で名前を呼び直し、少しだけ手を持ち上げた。その手を頬にあて、擦り付けるかのようにして泣いた。

母の、それ以外の部分の身体の丈夫さは皮肉だった。私が帰ってきてからも、息を絶え絶え過ごしている。もう攻撃的にできない母に、私は急にたんと話しかけた。努めて明るく接したのに弱っているからなにもできない人をいじめているみたいで、弱いものいじめの逃げ虫みたいでとても嫌だった。



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