空飛ぶさんしょううお

北から都会に出て来て根っこのはえつつある、しがない会社員の落書き帳です。ノスタルジックだったり頭でっかちだったりしながら思う存分好きなことを好きな表現で書きます。

手のひらの傷痕

会社から駅まで、早歩きで5分強。
目の前の雑誌にひととおり目を通して、企業名を拾うくらいならまだできる。ギリギリ間に合う。

何事も最も大切なことは準備だ、と私は思う。事前に資料を用意すること、そのために何を話すか考えておくこと、起きることを想定すること、自分の手中に納め事を運ぶ逆算をすること。

時には心のそのものの準備をして整えること。

仕事で見本市を歩き回り情報収集をすることがあり、明日朝もまただだっぴろい空間で同じようなものを広げ、見知らぬ人に声をかけてかけられてを繰り返す、あの空間にいくことにした。

そうして、目的を持たずに歩いて時間を潰した日を思い出す。眠気で脳内が朦朧として、人だらけの通路を右往左往するだけで、やったつもりを味わおうとするあの感覚に嫌気がさす。私ももうそんなに若くないのだ。後輩の企画書作りに偉そうにああだこうだ言うような立場になりつつあるのだ。行動に意味を持たせなければならない。そのためにはやはり、準備が大切なんだ。

急いで最後のひとりに挨拶をして会社を出る。職場は地下鉄の駅が最寄り駅なので、終電が早い。この地をそもそも発てないと家に電車では帰れない。あの人も同じ終電のはずだが、そう思いながら色々考える。夜中も走るバスに乗って帰れば間に合うのか、それとももうひとつの宿があるのだろうか。後者だとしたら、家庭がうまくいっていないのか、良い人でも他に見つけてしまったのか。

急ぎ足で改めて電車を調べると、なんだ、思ったより終電は4分遅かった。急ぎ損だ。いや、コンビニに寄れるな、駅ビルのコンビニに立ち寄ることにした。

冬の帰り道、この終電間際は何となく肉まんを欲しくなるのだが、コンビニの温かい食品は大体品切れだ。東京だからっていつでもなんでも手にはいるというのは、嘘である。オフィス街や住宅街の、夜中に人が落ち着く場所では、揚げ物やおでんは夜中に姿を消すのだ。そんなことを思うのも、じゅうぶんに贅沢なことだが。

今日はたまたま、2つ残っていた。街中のコンビニにはこの時間にはレジを一度閉める作業をするようで、レジ付近には人がふたりいるのに終電間際に駆け込んだ客が列をなし、なかなか冷や冷やする。

小銭を触るのも面倒でポイントで買い、袋入らないです、と紙袋を手に取る。熱々の蒸気が紙の中でうずくまり、暫くは、ついついべたべた触ってしまう。

そのうち、私は自分の手の甲を見る。左の手の甲。指輪は利き手ではない左につけることのしている。大抵中指につける。そうすることで、人差し指の下の方の傷痕が余計に目立つ気がする。でも、私は指の拘束感にちょっとした安堵を覚えて、同じ指に飾りをあしらい続ける。

不思議なことに、緩めの仕上がりの指輪でも、常につけておくことで指は心なしか細くなる。ほんの少し華奢になったその指を見ると、さらにこの指を何かと繋いでおきたくなる。

手の甲の傷は、数カ月前にアイロンで焼いてしまったものだった。水膨れがひどく、傷が埋まるのにすら1カ月ほどかかった。人に会う度にどうしたのかと訪ねられるほど、その傷はよく目立った。グラスを握る手、資料を指さす手、楽器を演奏する手、机にそっと乗せた手、そして、指輪をまとった手。人の目は少しだけ、そこを見た。もしかして一生残るかもしれない。自分がちょっと不注意をしただけ、こんな下らない理由で。この傷には恨みどころか思い出すらない。ただ周りより少し赤黒いだけだ。白くて綺麗だねと褒めてもらえた手の上に、見た目を汚す線のような痕。

ただ、心配性の母がこの傷に触れることがなかったことだけ、ふと手を眺めると思い出した。思い出がないことで思い出されることもあるものだ。

いつもの母なら、そう考えては脳内で再現を試みる。そしてほとんど完璧に表現できる。私の脳内はきっと世の中で一番そっくりさんのモノマネ芸人だ。
どうしたのぉ~!もう~、大事な手なんでしょぉ、楽器弾けなくなったらどうするのぉ~?

少し可笑しいくらいに思い出せるのに、完璧な再現に満足したあとにやはりとても悲しい気持ちになる。

思想や記憶は、物理を越えられないのだろうか?いつか、脳内の散らかった引き出しから見つけられなくなりそうなたくさんの記憶、見つけられないことも思い出さないかもしれない些細な出来事、忘れたいのに何度も刷り直して美化される思い出、それらはどれも目に入った物体との関係性によっては否応なしに頭の最前列に呼び戻される。そして否応なしにその時の感情が少し染みだす。あの、きれいで不気味な山奥の病棟の、生暖かい色の部屋のなかで、鼻や腕が管だらけになって寝ている母が、いつまでもこの傷に気づいてくれないあの情景は一瞬で思い出される。

傷を眺めていると、家の最寄り駅についた。待たなくてもいい信号を待ちながら、頭のなかの片付け方をぼーっと考えた。


160302



メトロ

電車を降りた瞬間、人は一斉に駆け出し、何かを奪い合うかのように急いで階段を駆け下りて、また一つの電車に吸い込まれていく。左側の通路は改装工事が行われており、人が無我夢中に走る様子を一層滑稽に見せた。大人のエゴによる徒競走で駅は更に騒がしくなり、かくいう私も一緒になってエスカレーターをどかどかと降り、さらに深い地下へと引き寄せられているのであった。

当たり前のように遅れてやってくる半蔵門線に、もう遅れることが分かりきっている私が急いでいる振りをして乗る。スタートダッシュの決まった日には、ギリギリの電車に駆け込み、せめてもの努力が報われる。進行方向に逆らって重い扉を何枚もこじあけ、人をかき分けながら進む。決まって三号車くらいから空いた席を探す。渋谷方面は朝の割にはがらがらなのだ。できれば女性の隣、空いていなければ身頃のスマートなビジネスマンや清潔感のある若者の隣を無意識に選んでいる。腰を掛け、軋む背筋を伸ばすように前にかがみ、膝に乗せたバッグをかかえる。誕生日に買ってもらったイタリア製のナイロンバッグは、持ち主のせいでくたくたで疲れてみえる。整頓されていないためただでさえ多い荷物が余計にかさばり、デザイナーが頭に描いた美しいフォルムを崩し、さらに中のものが露見していた。

都下に張り巡らされたトンネルを抜ける音が背後から聞こえる。その轟音で、殆どそれしか聞こえない。窓の外は停まるころに明るくなり、走り出して軌道に乗ると暗くなった。細長い車体が蛇のように、しかし高速で進む姿を頭に浮かべ、それをまじまじと見たことがあるわけではないが、四肢をばたつかせて不格好な走り姿をさらした自分を思い出し恥ずかしくなる。毎朝毎朝、同じことを繰り返す。不思議なことに、何分早く目覚ましをかけても、何分早く起き上がっても、家を出る時間はほぼ同じだ。それを私は、会社に行きたくないという気持ちの顕れだとして、受け止めることにした。人に迷惑をかけたわけでもないし、文句があるなら上が給料から差っ引けばいい。むしろ、給料が減るのなら遅刻をしないかもしれない。自分でもにくらしいほど現金なやつだ。誰かに変えてほしいのかもしれない。そんなことをぼーっと考えていると今会社に向かっているのか、はたまた帰り道なのかわからなくなりぞっとした。

目的の駅にとまると、チューブから粘度のある液体をしぼりだすかのように、驚くほどの人がゆるゆると出口へ足を運ぶ。歯磨き粉の側面が途切れ途切れにあいていて、ゆっくりゆっくり踏みにじられるような。これだけの人が街のどこに消えていくのか不思議なほど、改札の中は繁盛している。一度上ったあと、銀座線をくぐるために一度階段を降り、また上る。ところどころ空きのある構内のポスターを見て色んなことを考える。メトロの広告が多いと広告費も厳しい月なんだな、なんて職業病のような目で見ている自分にも嫌気がさす。

一年前に引っ越した街から会社への通勤は、どんどん当たり前の景色になり、どんどん身体に沁みて鈍くなった。その中できっと必死に新しいものを探していた、時が矢のように通り過ぎてしまわないように。


141004?

帰省

      • 実家帰るの?いいじゃない、だらだらして、食って寝て、夜中まで起きてて、昼頃まで寝て。なーんにもしない。でしょ?

昔は実家に帰るのが楽しみだった。今は足が重く憂鬱で仕方が無い---こんなこと、本当なら言いたくないが---私はひどく疲弊していた、日々弱る母の姿、もうきっとできない、だらだらした帰省。
そんな私を察してか、父はよく働いた。よく家事をして、よく母の面倒を見て、怒るでもなく、それはむしろ昔からそうであったかのようにすらさ見えた。私は少し甘えたが、父が疲れていく姿もまた堪えた。父はよく皿を割った。よく、お願いしたことをし忘れた。もしかしたら、昔からそうだったのかもしれない。それでも私には今の出来事が結びついているようにしか見えなかった。

あの日は偶然が続いた。
たまたま昼2時過ぎにごはんを食べていて、電話嫌いの私がたまたま父からの電話に出て、そこから、私の色んな人生の道が変わったように思う。
地下の蕎麦屋は電波の入りが悪かった。店を出て、電話口の父の声を聞いた私は、何故か冷静だった。混乱した人や状況を前にして、人はむしろ落ち着くものである。
父は泣きじゃくっていた、父が泣くのは祖父がなくなったとき以来で、私は何となく覚悟をした。

母に腫瘍が見つかった。
精密検査の結果はこれからだが、もう遅いかもしれない。
思わず、すぐ帰るから待ってて、と答えた。東京からそこへは、6時間の遠出だった。
幸いにも上司の理解があり、飛行機を押さえると私はすぐに家に戻った。身支度をしているうちに、まるで幼児後退をしたかのように叫んだ。母が編んだぬいぐるみを抱いてベッドへ転がり込んだ。家を発つまで1時間。時間は長く感じた。普段は見れないワイドショーをかけて、速く浅い息を繰り返した。
夢かな、どうしてリアルな夢を見ることはあるのに、これは夢じゃないんだろう。
頬をつねったりしても、抱えるぬいぐるみの編み目やベッドシーツの起毛した布地は、しかと肌を押し返した。夢でも嘘でもないことは、本当はよくわかっていた。
ある意味相反する考えが頭の中をぐるぐると巡り渡った。
田舎から上京して、年の離れた母を持って、いつかは来ることを覚悟していたじゃないか。
どうして、母じゃなきゃいけないんだろう。

あることないことが過る。これは私への試練なのだろうか、いや、母への試練かもしれない、母は私の知らぬところで罰が当たるようなことをしたのだろうか、それとも人生の幸せを使い切ったんだろうか。
荷物をまとめ、まずは家を出ることにした。冬の冷たい雨がまた、私を追いやるように感じた。道行くなかで、ぴんぴんしたお婆さんを見かけると、どうして私の母が、という思いは強まった。
人一倍、健康に気を遣ってきた母。
人一倍、家族や友人といった自分以外のために尽くしてきた母。
私は何か足りなかったのだろうか。いや、十分尽くしてきたはずだ。
そう思うと、母親を大事にできない知り合いなどを思い出して腹立たしくなった。その人がこういう思いをすればいいのに。その人の母親が病に臥せばいいのに、とすら思った。心が狭くなっていたように思う。



地元の最寄り駅の前では父が車で待っていた。昔なら母が最上級の笑顔で、おかえり、と言って手を振ってくれる場所だった。まずはいつもどおり、ただいま、と答えた。しばらく足を病んでいた母は歩かなくなってしまっていたため、駅前には来なかった。
コンビニの駐車場で、私は細かな質問をした。会う前に出来るだけ受け止めて、母に何事もなかったかのように明るく振る舞いたかったからだ。手術は出来ないの?でも、治らないわけじゃないんでしょ?私は一見冷静なようで、父の答えを誘導するような、希望めいた質問を投げかけた。父は真面目で、出来るだけ事実を答えた、それは、私の希望めいた気持ちを悉く潰していった。

20代前半ながら、私にはある夢があった。それは、母に孫を抱いてもらうことだった。
私は母方の地元で育った。ひとりっこで母方の親族では一番末っ子で、それだけでたいそう可愛がってもらった。しかし、祖父母に抱いてもらったことはなかった。母はきょうだいの生まれ育った家を守り、両親の看病をいちばんやってきた。看取ったあと、6人きょうだい最後に結婚し、高齢出産で私が生まれた。私がこの世に現れる前に、二人ともいなくなってしまった。
母がよく、おじいちゃんおばあちゃんが生きていたら、すごく可愛がってくれただろうに、と言った。私は田舎で商社を営んでいた祖父と家を支えてした祖母に会ってみたかった。なので、私は30手前で結婚して、子どももその腕にかかえてもらって、それが親孝行になるだろうと思っていた。

母は私の友人たちの母よりよっぽど年上だったが、それでも実年齢より若く、可愛らしいと言われる母がとても自慢だった。若くて可愛くて料理がうまくて、縫い物が好きで子ども想いで夫想いな、本当に大好きな母だ。

その夢を打ち砕くようなことを父は言う。私の現実を避けるような質問は、今思えばかえって酷だったかもしれない。父は、そんなに長くないらしい、もう手術もできないし転移もある、今年どころか、あと数カ月で居なくなってしまうかもしれない、と言われた。

そして、覚悟してほしい。そう言われた。

父はどんな想いだったろうか。父方の祖父は十数年前になくなったが、祖母は健在である。いくら姉さん女房とはいえ、母親より妻の命を生々しく思い知らされるなんて、あと何十年も共にするだろうと思っていた人が、あと1年いないかもしれないなんて。ただただ、私たちは親子で、涙を堪えず、話し合った。それは十数年ぶりの出来事だった。

玄関で、ただいま、と明るい声をつくると、私は表情を顔にセットした。





細かな灯りのつくる道に、飛行機が順番を待って並んでいた。前を走る機体は足元を照らして進み、地面を照らす明かりは徐々に見えなくなるが、翼の先を飾る二つの明かりが、離陸を仄めかしていた。
2台ほど見送り、この機体はアクセルを踏んだ。角を曲がった。灯りの道は見えなくなり、ひとつひとつの明かりがただ左から右へと消えていった。静かだった機体は急に雄叫びをあげ、助走の歩幅を段々縮めていく。その線を超える、決死の覚悟を表現するように。機体は軽く地を跳ねて、その勢いで身体を空に委ねた。
足から翼へ、そうするとこれまで同じ目線にいたはずの明かりはどんどん小さくなり、瞬くようになった。それは手で掬い集めても指の隙間から零れそうな程細かく、明滅を繰り返して、其処に在ることを訴えてくるようだった。時折ふと輝く力を弱め、また瞬き出す。真っ暗闇で見えない雲がその灯火を遮っていたようだった。時に、伝わらないような強さで、でも必ず其処に。いつか、消えてしまうのだろうか。
とはいえ、東京の夜は本当に美しかった。波目の見えぬ海には照明がいくつか輝き、その海面へ反射する光で其処に在るものを視認できた。


140815

カクテル

バーのカウンターの薄暗いテーブルに、季節遅れの鬼灯が、カクテルの本の上に飾られている。今日の季節のフルーツカクテルには、五島芋やラ・フランスが並んでいた。ウォッカをベースにしたとちおとめのカクテルが人気だというのでそちらをオーダーした。春のイメージだったいちごも、ここ数年ですっかり初冬の果物として定着しつつあるようだ。コンビニの季節モノのお菓子にもいちごのラインナップがずらりとある。

フルーツカクテルは、アルコールを感じさせないのが腕の見せ所だという。大きめのグラスにいちごを詰め込み、棒でつぶしながら果汁を絞り出していく。種とそこから続く筋が、耐えて形を残し、食感の役割を担う。カクテルにすると甘味より酸味が勝ってしまうので、少しだけ加糖する。この、砂糖やグレナデンシロップを少し加える儀式が、不思議なことに、フルーツカクテルをよりフルーツらしい味わいに変える。粒々としたフルーツの飲み物が出来上がる。ジュースのような感覚で飲み進めると、気づけばアルコールが脳内を侵食しているものだから、本当にいじらしい飲み物なのだ。

25歳、生まれて四半世紀と名乗れるのも残り1カ月ほどとなった。初対面で早生まれを説明するのも億劫で、数え年で答えるようになっていた。そのため、常に実年齢より1歳年上であるような感覚に陥り、自分の年齢が分からなくなる。バーを語るにはまだ早いと嘲笑われるかもしれない。しかしこの、一杯千円以上するような飲み物を少し飲むことが、生活に贅沢を彩るのである。賃貸の部屋はワンルームで、窓から冷たい空気が流れ、車の音が絶え間なく聞こえてくるような決して贅沢ではないものだ。ぼろぼろの家に住む私にとって、この一杯をゆっくり舌と喉に滑らせることそのものが、幸福なのである。

ふと、理想を固めた偶像的な自分と現状の自分を較べる。いや、この思考行為は絶えず気づけば行っているある種の癖なのである。早い歳から、女性らしさを振りかざすことを恥じてきた。かつて二十歳頃は、そのような明るい女子を見下していただろう。パステルカラーのチュニックやシフォンワンピースを身にまとい、同じような髪や服を選ぶ彼女たちを流行という没個性だと思っていた。しかし、今思えばそれは強がりだったように思う。「オンナノコ」として振る舞いきれない自分。その時 没個性化 していればできたような服ももう着られないだろう。気づけばかわいらしさを着飾る年齢を越え、今も私は年齢を重ねる恐怖と本来の幼さの狭間で揺れていた。少しだけ自由になったお金を、身の丈に合わない使い方で消費し続けて、私は私らしく、を呪文のように心の中で唱えた。私はその「私らしさ」を知らない。思うがままに生きることは私の性に合っていない。言ったこと、やったこと、それの意味付けとどう解釈されるか、そのようなことばかりが頭を占領してCPUはいつも100%に近い。その息抜きについ、高い居酒屋やバーに行っては散在するのである。周りの人間は貯金しているの?と笑った、しかしいいんだ、いつ死ぬかなんて分からないんだから。

こんなこと、真顔で言ったらきっと笑われるであろう。父と母のことは、近い将来でないように祈ってはいるものの、ちゃんと看届けたいと思っている。ひとりっこの私は、両親が生き、出逢い、愛した証を私を介して残したいという気持ちも強い。しかしそこには私の私に対する愛情が欠けている。社会に出て数年がたち、少しだけ世の中を学んでしまった中途半端な感覚。これが、私の強がりな語気を一層あらげていた。かわいくない自分。生意気なことを言っていることは、自分でもよく判っていたのだ。しかし、自分という存在の不確かさを掻き消すべく、人には近寄ってほしくなかった。近づいてくれる、稀有な優しい人間にはもれなく傷をつけるような言動を擦り付けてきた。粘着質に、粗いサンドペーパーでプラスチックの表面を撫でるように。それでも離れない人間を私は侮蔑したし、応戦してくる人間には趣を感じて、言葉尻の鋭利な言葉を投げ続けた。その、キャッチボールにならない会話に自分でもあきあきして疲弊した。しかし、身の守りかたを知らなかったのである。

誰が、こんな人間を受け止めるであろう。自分でも、理解しているのだ。自分で判っていること、それを伝え受け入れてもらえるのであればどれだけ甘えられただろう。そう思いながら、受け止めようと構える人間、稀にそんな人が現れたりしたら、威嚇をしながら簡単に懐柔されてしまうのである。

終電もなくなったようなバーには、酔いに任せて開放的になった紳士が、大きめの声で脳内に浮かんだ言葉をそのまま口から放つ。バーテンダーは、まずは話を聞き、引き出し、時折悟りながら語りかけるのが仕事だ。今日は「12月は忙しいですか」と全ての客にきいているようだ。店の会話が耳にはいる。とても面白い。好奇心とともに、私はこの店の空気でいられればいいのにと思うのである。自分には焦点を当てないでほしい。存在を消してほしい。誰にも、私のことを認知されないでいたい。

その意味で、うるさいカフェが好きだ。若い女性の他愛もない話に喜怒哀楽が散りばめられる。勉強に勤しむ学生は、ノートを下敷きにスマートフォンをいじる。サラリーマンは手持ちぶさたの時間潰しにコーヒーを頼み、中途半端に20、30分で席をたつ。その空いた席に、学校帰りの高校生が座る。彼らは会話をするという目的で会話をする。思い出すこともないであろう、日常の些末な出来事をつらつらと口から吐き出すのだ。それは、酒を飲んでいてもいなくても変わらない、頭に浮かんだことを思考を介さず、駄々漏れにするのだ。私はその人混みのがやがやした空気にひとりで溶け込むのが好きだ。ある意味、大きめの音量の音楽とそれを伝えるカナル型イヤホンの没入感に同じ役目を感じる。私の脳内の余計な思考を遮ってくれればそれでいい。人混みのなか、大多数のなかのひとり、そうやって自分の存在の粒をどんどん小さく柔らかくしたい。誰からも認知されない、多数のなかのひとり。それでいい。皆、私のことなど忘れてくれるといい。普段は語気の強い、わあわあとうるさい私を。忘れてほしい、そんな私は私も嫌いなのだから。

このような、排他的で陶酔的な感情には年に何回か襲われる。月に1回、憂鬱な日々が訪れ、数カ月に一回それはたいそう酷く現れ、さらに年に何回かは自分の心の中の様々なコードが絡まり、解けなくなる。そんなときにむしゃくしゃして生まれた作品は暴力的で、なおかついとおしい。それは文章でも音楽でもそうだ。私は人間らしさを愛する。割りきれない汚い感情、理性で避けられない扇情、一筋縄には整頓のつかない利害の均衡の維持、衝動的な言動、恐らく数時間後にすら悔いるようなそれらは、きっと悔いる瞬間に恥じらいや忘却欲が生まれるであろう。しかし、それはさらに日にちを重ねると醸成されて、人間らしさとして宝飾品になっていく。ト書き通りの模範的な生き方のどこに、興味を孕む余地があるだろうか。私は人の失敗を見ると安堵し、悦ぶのである。ああ、この人も人間なんだなと。ニンゲンであると判れば、もっと知りたくなる。もっと、フツウから逸脱した貴方を知りたいと思うのである。それが私のなかに存在しない感覚感情であれば、尚善い。知らない世界を持つニンゲンであるほど、簡単には知りきることのできないもどかしさとともに興奮を覚える。底をつかないでほしい。その、フツウじゃない側面は底無し沼であってほしく、私の好奇心により探られたとしても、腫瘍と放射線治療のように永遠に鼬ごっこをしたい。その身体はいつか滅びるのだろうか、もう見つけられなくなるぐらいなら滅びてしまってほしいのだ。堕ちるところまで、堕ちきって、逃げられなくなるほど、ニンゲンが見たい。

その欲が、人には分からないらしい。一度スイッチが入ってしまうと、自分のなかのそのニンゲン用のキャンバスに、アウトラインが書けないと気が済まないのだ。どんな人で、何が好きで、どんなときにどういう思考になるのか。少しずつ情報を集め、筆を一点一点置きながら、淡く絵を完成させていく。時折気が変わったり、異なる印象の固定観念に晒されていたのであれば、筆を乗せて上描きする。その絵はもちろん、出来上がらなくていい。簡単に描ける絵では飽きてしまうからだ。やはり底無し沼であってほしいのだ。

この作業もまた、疲れるのである。人と人との距離の詰め方に関しては、大変下手であり、また苦手だ。もし人が自分から自分の話をしださなかったら、問いかけるしかない。その問いかけがどうしても下手なのだ。その点、バーはマスターと無理して会話をする必要もなく、たいへん楽な空間だ。私は酔いに任せてこの文章を殴り書き、その横でおじさんの大声にマスターが付き合い、2人組の女性客がああだこうだと話をしていた。ここの、空気になれたらいいのになと、思うのである。


151213

解決すること

時に悩んで堂々巡りし、解決の糸口が見つからずに悶えることがある。もしかすると"悩む"ということすら能動的なもので、何もできない、何もしたくないという無気力さしか存在しないこともあるかもしれない。表面張力ぎりぎりまで敷き詰めたガラスのコップが、ちょっとした揺れでふるふると水面を揺らし、同一円心状の並みが限界ギリギリで震えているような、そんなイメージだ。

そんなときどうしたらいいのだろうか。
コップの水を溢す方法を、考えるだろうか。溢し方はどうする、心の広い友人に思い切りぶっかけるのか、トンと突いて漏れた水をインク代わりに書きなぐるのだろうか。むしろ宛もなく壁にぶつけて、ガラスが粉々になるくらい暴力的になるだろうか。

いずれにせよ、いっぱいいっぱいの気持ちを少し処理したあとに必ず出てくることがある。それは、「解決策を選ぶのは自分だ」ということだ。残念ながら、どれだけ悩もうが泣こうが愚痴ろうが、自分で答えを導きだすしかないのだ。

ーー"解決したい"のなら、であるが。

世の中には不思議にも、解決を必要としない悩みがある。たちの悪いことに本人に自覚はない。ただストレスの発散先として、体内に醸造された溢れそうな感情を迸らせた先に、何もないことがある。

もし繰り返したくないなら、つまり解決したいのであれば、問題に向き合って絡まった要素をひとつずつ紐解き、原因をAとかBとか、ラベル付けした箱に振り分ける必要がある。それで、直せるもの、どうにもならないものを整理したあげくに出来ることからやっていく。人間は教訓を重ねてここまできたのではないのか。

しかしそんなに悩みとはロジカルではないのも事実だ。

「じゃあどうしたいの?」
何もかも言いきったあとに出てくるコレ。この問いにスムーズに答えられる人は、少なくても感情が爆発してしまった人にはないのではないだろうか?

聞き手はまさしく、何とかしてあげたい気持ちと、同時に話を聞き終えたあとにどんなアクションを求められているのかを聞きながら模索する。

そもそも聞きはじめで、相手がどうしてほしいかを見極めてから聞く必要があって、感情的になって、ようやく話す相手を見つけられたような人に「じゃあ、どうしたいの?」は厳禁だと思う。信頼して話したのに、と絶望と不信感しかないであろう。

関係性にもよるが、正直言って私はそれは損だと思う。長い目で見て、その発言で失うものはそれなりにあると思う。特に仕事などにおいて、小さな伏線が時間をかけて足かせになることは、残念ながら人間関係として容易にあり得る。

ではどうしたらいいのか、というのには悩む。世には、とにかく同意してあげなさいとか言葉を繰り返すことで受け止めてもらえた安心感があるだか、そんなことを言うものもあるが、それらの効果を期待して振る舞っていることがばれてしまうと話す気が失せてしまう。

結局、人に自分の深い部分にある綺麗で楽しくない部分は、伝えたところで相手に与える良い効果は何もない。イーブンな関係なら、それで結束が深まっているのなら良いのかもしれない。しかし楽しませられないのならエゴなのではないか、そう思うと伝えることに疲れて口をつぐんでしまう。

ここで、自分が自分らしく生きるという、世では当たり前のように言われていることを思い出す。自分らしくとは何なのか、自分がしたいように生きるとはなんなのか。そしてそれらとエゴの違いは何か。好きなものを食べ、好きな遊びをし、好きなときに寝ればよい。そういった自由に言及したいのではない。場の中で 1 でしかない自分ではなく、1対1、または1対グループで存在する自分に関して、生きたいように生きるとは何なのか。

これは極論なのかもしれない。
だって、集団でいればリーダーは必ず生まれ出かけるなら最低でも集合場所くらいは決まる。優柔不断な人間の塊でも、そのなかでランクわけされて決断をするようになる人間は生まれる。それは生きたいように生きることと違うのか?生まれてしまった役割を全うするだけなのか?それは言い出したらきりがないかもしれない。

とにかく人との会話において、相手にメリットない会話に対する意味を見いだせないとき、それをどう扱うべきかは悩ましい。

言いたい、聞いてほしいという気持ち。
自分の相手の中での存在意義を考え、発言は好ましくないと思う気持ち。
この二つの思いが相反して、余計に思考がぐるぐるしてしまう。


ところで、会話に意味はあるのか。会話そのものの意味より、会話をすることで生まれる関係性に意味があるように思う。最低でもプライベートな空間では。

言葉とは、文章とは何か。これこそまた堂々巡りしそうなので、後日改めて思考に取り組みたいと思う。


160225

悟り

空港に着き、ボーディングブリッジに踏み出すと、急にキンとした空気になる。脚から順に肌の露出した顔まで澄んだ冷たさの中に包み込まれる。歩みを進めると、キャリーバッグと床とが摩擦し、上陸に抵抗しているような重みを感じた。

新千歳空港は、搭乗待ちの広場と到着した乗客の通路とが、低いガラスの仕切りで区切られているだけだ。旅立ち前の浮かれた空気、売店の賑わいを横目に、ぞろぞろとせわしなく人の群れが階段をおりた。

手荷物受け取り待ちのレーンを横目に出口へと向かった。ゲートの向かいには、ダウンを着て腕を組みながら、まだかまだかと家族を待つ人でガラスの扉を覗きこむ人で溢れかえっていた。そこに、自分の両親がかつで二人で迎えに来てくれて、見つけしがた満面の笑みで手を振ってくれた姿を思い出した。

到着口の扉を出ると、もう中には戻れない。人だかりを抜け、通路に出ると柱の近くで父が携帯電話をいじっていた。声をかけると少し驚いたあとに、メールくれなかったじゃん、と注意を受けた。すぐ見つかると思ったから、と返した。そのまま駐車場に足を向けた。

駐車場に向けて外に出るとさらに気温は下がり、空気が引き締まる。しかし、東京に比べて寒く感じないことが不思議だ。北海道の人はだいたいそう言うので、私だけが思っていることではない。あの、東京の刺さるような風は、何年住んでも慣れることができない。

車に乗ると、ああだこうだと父と世間話をはじめた。だいたい私が会社の話を父に延々とする。しかし必ず最初に聞いていることがあった。お母さん、どう?だ。自宅療養している母の様子を聞くのだ。だいたい、うーん、と言って、少し良くない回答が来る。私はそれに、自分なりのポジティブな解が得られるようにするための質問を繰り返す。

今回はその質問はしなかった。何となく、聞きたくなかったからだ。

実家への帰路も中盤を越えた頃、次の帰省の話をした。ここのところふた月に1度のペースで帰っていた。次に帰るとしたら3月で、ちょうど母の誕生日くらいに帰れそうだ。

そう父に言ったところで、うーん、と、また父は言葉を選んだ。「その時になったら、入院しているかもしれないねぇ」

私はこの手の話のとき、だいたい無表情だ。自分では見えないが、恐らく死んだ目をしているだろう。感情を剥き出しにしないためのスイッチが心のどこかにあって、自分が困りそうになるとすぐ、私はそのボタンを押す。仕事でストレスを感じたときによくボタンを押してしまうが、反抗期のなかった高校時代にも、その顔をしていたような気がする。そしてここ数年、すぐ同じ顔をする。

私は、そっか、じゃあ2月も帰ろうかな?予定わからないよね、後で改めて話そう、と話題を切った。その時の顔もきっと感情を掻き殺したあとの、何も残っていないような目であっただろう。それを運転中の父に悟られていなければ良いが。

家に帰ると、玄関にも茶の間にも母の姿はなかった。母は奥の部屋で眠っていた。ここのところ寝ている時間が長い。ついに食べる量も減ってきたという。顔色や肌は、真っ白だったがつやつやに見えた。ただ、足に痛みがあり歩くのがとても辛そうなのだ。昔は女ひとりでは到底運べないような食器棚をひとりで動かし、模様替えをしていたものだった。その時の腕っぷしが振るえそうにないほど、母の腕は細かった。

不思議なことに、元気な頃の母の様子は悲しいくらい簡単に脳裏に描くことができた。むしろ、その場にバーチャルな母を再現できる気すらした。帰るたび、少しずつ動作をとりにくくなっている母を何度みたとしても、帰ったら玄関で、ふくよかでちゃめっけのある母が満面の笑顔でおかえりー!、と明るく張った声で迎えてくれる姿が目に浮かぶのだった。台所で作業をする姿も、探し物をして右往左往する姿も、ダイニングテーブルで椅子に座り、猫を抱きながら爪を切る姿も。記憶とは褪せたり消えたりするもののような気がして、私は頭の引き出しに記憶をしまうことが怖かった。だから、写真におさめたりして、引き出しにしまった記憶を取り出しやすいようにしたかった。でも、記憶とは、大切なものはそう簡単には消えないものなのかもしれない。いや、私の人の存在に対する記憶は合成されたもので、これまでの経験を完全に複写したものではなく脳内で作り上げた偶像かもしれない。それでも、元気な頃の母の姿に期待して、どこかでまた会える気がしていた。

母は奥の部屋のベッドと茶の間のソファのあいだ、時折お手洗いへの道しか行き来しない。ごはんのときにダイニングテーブルの椅子に座ることもなくなった。ソファは足置きもついていて、背中と足を自動でリクライニングさせることができる。だいたい足を伸ばしてテレビを見て、ごはんもサイドテーブルに置いて食べる。

この年末の帰省の前、私は母に手紙を書いた。とある平日、朝急に母から電話が来た。私は電話が嫌いで、実家と電話することも少なかった。それが、急にかかってきたもんだから出てみると、メールで済むような他愛もない内容だった。「あのね、膝掛け編んだからね、送ろうと思うんだけど。いつだといい?」答えて電話を切ったあと、涙が止まらなかった。母の心細い気持ちが伝わってくるようだった。その日の夜、寝るときに目をつむると急に、仮想の母がまぶたの裏に現れた。キッチンに立ってニコニコしている母が。私は泣きながら部屋の電気をつけた。思いのたけを手紙に書きなぐった。ずっと、書こうと思ってうまくまとめられなかったことを。夜中にしたためる手紙は、感情的で暴力的だ。経験則として、それは知っていることだった。でもこのまま伝えたかった。私はいつも以上に緊張しながら、手紙を郵便ポストに投函した。

それが師走はじめの出来事だ。手紙には、母がどれだけ周りの愛されていて元気になれば喜ばれるかということ、そして自分で頑張る気持ちにならないとよくならないこと、そしてまた母の料理が食べたいことを詰め込んだ。私は普段は滅多に開かない郵便受を毎日のようにあけた。左に2回、右に1回ひねり手間に引き上げる。目線より少し上にあるポストからチラシを引き抜き、底のほうまで指先で漁った。しかし、その熱の籠った手紙の返事が母から来ることはなかった。

実家で、母は自分で台所にたつことはなさそうだった。私はそれは母の諦めに見えた。母の抱える痛みは私にはわからない。しかし、自分で頑張ろうと強く思えば、乗り越えたり自力でできることもたくさんあるのではないか。私はそれを母にわかってほしかった。そう思い、私は母にも少し料理の下ごしらえを手伝ってもらおうとした。焼き餅をつくるときに、さとうじょうゆを混ぜる皿を母に渡したのだ。最初混ぜながら、砂糖が足りない、と言った。量を増やして再度渡したところ、「やだ!」と言って皿を突き返したのだった。

その時、私は十二分に悟った気がした。母はもう、自分でなにかをする気がないこと。頑張るのではなく今の生活のままなだらかに過ごしたいこと。そしてこれは自宅療養ではなく、自宅介護なのだということ。そして父は恐らくもっともっと前から、この生活を介護として受け入れていたこと。私は母の病気が見つかってからこの実態を受け入れるまでに2年近くかかったこと。

母にその気がないとなると、私はもうどうしようもなかった。娘として、このまま衰えていく母を見過ごすことはできないが、本人にそのつもりがないのに何が出来るのだろう。いっそ頑張らないと言ってもらえたらどれだけ楽か。でもそんなこと、口から出させてしまえば魔法のようにいっしゅんで弱ってしまう気がする。

外の空気を吸ってほしくて、お詣りに一緒に行きたい、無理やり外に出そうかと思っていた。しかし、痛がる母の顔を見てその勇気は途絶えていた。

母の代わりもふくめ、父と3つ引いたおみくじ。家で母に最初に選ばせ、私が次に引き、残りを父が開けた。母が健康の欄を見て、「ゆっくり治しなさい、って」と言った。私のおみくじには全快の兆しありと書いてあった。私がこのおみくじを引いてしまったことに罪悪感をおぼえながら、そっとおみくじをしまった。


160103

行い

胸部が痛む。時たま、胸の中央の少し背中側に激痛が走る。昨日は帰り道、一瞬動けなくなった。肉を食べたあとのようなささくれた骨を思い切り背中に振りおろされたように、局所的なようで細かな痛みが一部に思い切り刺さる。

これもまた日々の行いの悪さだと思う。精神的なものでなく、身体的なほうの意味でだけれども……。

夜まで会社にいることもすっかり慣れてしまい、予定もなく残らなくて良い日は不安に刈られてしまう。なのでどうしても、アルコールを引っかけに出て、家につく時間はだいたい似たようなものだ。0時を回らないだけ早く感じる。

これは予定を詰めたがる性格というよりは、昔からの行いに紐付いているように思う。中学生の頃、ピアノと勉強の二足のわらじを履いており、家に帰ればどちらかをやらなればならなかった。練習も勉強も好きではなかった私は、意味もなく学校で友人とだらだら過ごした。山の上にある校舎からは、少し低い山、街、海が一望できた。赤々と照った太陽が水平線に沈みだすと、そろそろ帰る時間だ。太陽の沈みきった学校は街灯と少しの街の光しか明かりはなくて、罪悪感を一層高めて帰路についたものだ。

高校生になっても、同じように時間を潰して帰った。高校生の頃の方がたちが悪く、塾で自主勉強をしているふりをして帰った。真っ暗な時間に帰ることも抵抗が薄れ、厳しく定められていた門限は完全に形骸化していた。

大学生になり、最初は女子寮に入った。これがまた苦痛で、12畳の4人部屋だった。次の部屋もまたルームシェアで、とにかく住環境に恵まれなかった。中高生の頃の癖も染み付いていたのもあり、余計に外に出るようになった。外に出るといっても特段社交的なわけではないので、クラブに行ったり友人の家に入り浸るようなことはしなかった。人を誘うのも億劫でひとりでごはんを食べたり酒を飲んだりすることにもすぐに慣れた。

この年齢で節々を痛いと思ってしまうのも、これまでの行いの積み重ねでしかないのかもしれない。そう思うと、どれだけ健康サプリを飲んでももうどうにも取り返しがつかないと思う。


150224